隅田八幡神社について
御祭神 誉田別尊 足仲彦尊 息長足姫尊
明治43年合祀 丹生都比売命 瀬織津比女命
御由緒
「神功皇后が外征後、御帰朝の際、筑紫を発し、紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を経て大和の都に御還幸の途次、輦をこの地に駐め滞留なさせ給いし旧跡にして、欽明天皇の詔により貞観年間(西暦859~877年)に八幡宮が勧請された。のちにこの地が石清水八幡宮の社領となり、当神社を『隅田の別宮』と称した。
長治二年(西暦1105年)隅田荘内の豪族で隅田党(隅田一族)の祖・長(のちの藤原・隅田)忠延が当神社の社務を司る俗別当職(ぞくべっとうしき)となり、次いで隅田荘の荘官である公文職(くもんしき)にも任じられた。その後代々両職に任じられ、鎌倉時代以降は隅田党の氏神として社頭堂塔も備わり、祭式を厳かにして栄えた。
永禄三年(西暦1560年)松永弾正久秀の攻略によって社殿が焼失、慶長年間に再建され、江戸時代になると隅田荘十六か村の産土神として繁栄し、紀州藩主徳川氏が累代厚く崇敬した。社殿は、文政二年(西暦1819年)焼失するが、同五年には再建される。今も壮麗で往古を偲ぶことができる。
明治時代の神仏分離で当神社の神宮寺の大高能寺が分離され、大正五年県社になる。
『すだのはちまんさん』
古くは、『八幡宮』『八幡社』とも。昭和26年宗教法人法により『隅田八幡神社』に。
末社 恵比須神社 丸高稲荷神社ほか